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アラン・グリーンスパンって誰?

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(1)1月1日から『日本経済新聞』の「私の履歴書」欄は、米国の中央銀行である連邦準備理事会(FRB)の前理事長、アラン・グリーンスパンが執筆している。グリーンスパンは、87年8月6日から2006年1月31日まで20年近くの間、アメリカの金融政策の責任者であった。

(2)グリーンスパンは2007年には自伝 The Age of Turbulence(山岡洋一・高橋裕子訳『波乱の時代-わが半生とFRB-(上)(下)』日本経済新聞出版社)を出版した。この本の書評が2007年11月18日付けの『日本経済新聞』に掲載された。評者の慶應義塾大学教授・池尾和人氏は、「思索の成果をまとめた『新経済原論』」と題して、次のように述べている。

「グリーンスパンが議長を務めた時代は、アメリカが長期繁栄を謳歌した時期に当たる。その繁栄を脅かしそうになった、ブラック・マンディーや9・11といった試練をグr-ンスパンは巧みに乗り越えてきた。その実績によってグリーンスパンは英雄にな李、神話化された。その神話的人物の実像が、本人によって語られる。しかもその語り口は、『建設的な曖昧さ』に終始した議長時代とは打って変わって、非常に明快である。」

本書は、1997年に再婚したアンドレア(ミッチェル)に捧げられている。

(3)グリーンスパンはレーガン、W.ブッシュ、クリントン、G.ブッシュ大統領によって議長を再任されてきた。グリーンスパン時代の金融政策の運営が、アメリカのインフレなき繁栄が達成されたことは紛れもなく事実である。アメリカではグリーンスパンの後にどのような人物が議長になるのかということは大きな問題であった。現FRB議長であるバーナンキとげんFRB理事であるミシュキンが、インフレ・ターゲットを強く主張してきたのは、グリーンスパンの後に誰が議長になっても、「物価安定」を金融政策の主要な目標として金融政策が運営されるようにするためである。どのような考え方をもった人物がFRB議長になるかによって金融政策の舵取りは変わってしまうからである。つまり、金融政策運営から、できる限り、「恣意性」を排除して「ルール」に基づかせて運営することが重要であると考えたからである。金融政策の非人格化である。もちろん、ミルトン・フリードマンの主張する「一定の%での貨幣成長率」といった厳格なルールではなく、産出や失業の動向をも考慮した『制約されたルール』としての伸縮的で柔軟なルールに似た(rule-like)原則に従った金融政策運営が、グリーンスパン後の、金融政策の戦略である、と考えたのである。

(4)グリーンスパンは1926年ニューヨークのマンハッタンのワシントン・ハイツで生れた。父はドイツから、母はポーランドからのユダヤ人移民である。両親は、グリーンパンが5歳のときに離婚したが父親の姓を名乗っている。1940年には、ジョージ・ワシントン高校に入学し、プロの音楽家を目指し、1943年ニューヨークのジュリアード音楽院に入学した。1944年1月にハジュリアード音楽院を中退し、ヘンリー・ジェローム楽団のメンバーとなって、ジャズの演奏活動でアメリカの東海岸を旅した。1944年ニューヨーク大学入学、1948年はコロンビア大学大学院井進学した。ここでアーサー・バーンズの指導をうける。バーンズも、1970年2月1日から78年1月31日までFRB議長を務めた。1953年コロンビア大学を中退したグリーンスパンは、カンファレンス・ボードに就職し、コンサルタントとしての修行を積むことになる。1956年、コンサルタント会社を経営していたタウンセンドに見込まれ共同経営者となった。1958年タウンセンドが死去した後も、会社名はタンセンド・グリーンスパン・コンサルタント会社としたままである。この会社には、「テーラー・ルール」で著名なジョン・B.テーラーも一時勤めていた。1968年、かつてのジェロームの音楽仲間に会って、ニクソンの選挙キャンペーに加わった。ニクソン政権では、ミルトン・フリードマンとともに「志願兵制委員会」のメンバーとなり、1970年2月20日には、徴兵制反対の報告書を全員一致で提出した。1973年1月23日徴兵制は廃止されアメリカの軍隊は志願兵制に移行した。1974年8月9日、グリーンスパンは、フォード大統領によって、大統領経済諮問会(CEA)委員長に任命された。固辞するグリーンスパンを最後に説得したのは、恩師バーンズである。1987年グリーンスパンはFED議長に任命された。

(5)私は2006年3月10日発行の『四国学院論集』第113号に「アラン・グリーンスパン」という論文を書いた。私の論文はグリーンスパンがFRB議長になるまでの略伝である。上記でのべたグリーンスパンの略歴はこの論文からのものである。その最後の節にはこのように書いている。

「グリーンスパンの略歴をみての不思議は、グリーンスパンがFed議長に就任するまでに連邦準備制度や金融政策について集中して学んだという形跡はない。この点はバーンズやヴォルカーやバーナンキの経歴と比較してみると歴然とする。けれどもグリーンスパンは20年間近くもアメリカの金融政策の舵取りをしてきたのである。これまで触れては避けてきたアイン・ランドとの関係を検討することがグリーンスパンの経済哲学を明らかにするのに必要であろう。これは別稿の課題である。Who is Alan Greenspan?この課題は本
稿では完結しない。筆者に残された課題であリつづける。」(66ページ)}

(6)FEB議長に就任して以後のグリーンスパンについて知ることのできる彼の『自伝』や「私の履歴書」欄をを読むことはとても楽しみがある。

それでは、みなさま、ごきげんよう、さようなら。

by jedinagare | 2008-01-03 00:01 | 21世紀  

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