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「ジンカン」と「絆」と「私」

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(1)「人」という字は「一」が支え合って成り立つ。だから人間は一人では「人間」とはならない。人間は本来、人と人との間に何らかの関係を結んで生きていく「社会的存在」なのだ、といわれる。「人間」は「ジンカン」なのだ。

(2)「社会」とは「人間関係」だと私は大学の「社会学」の授業で学んだ。人間関係には互いに引き合う関係(結合)、互いに離れようとする関係(分離)、上下の関係(支配・被支配)の関係が存在する。現実に存在する「社会」はどのような社会にあっても、人間関係の3つの要素が混在するものである。しかもその3つの要素の混合度は様々である。さらにその混在の度合いは時と場合によって変化する。けれども、どのような人間関係が人間関係が当該社会の基本的トーンとして存在するのかは、その「社会」の性格(雰囲気)を変える。家庭、趣味の団体、企業(会社)、大学、地域、国においてもそうだ。けれどもその社会が社会として存続するためには「結合」という要素が、軸になければ、存続しえない。したがって、「結合」という人間関係が「狭義の社会」の本質である。それでは、「人」は何によって「結び合う」のだろうか。何が人をして互いに引き合おうとさせるのか。

(3)「絆」という字は「糸へん」に「半分」と書く。人は他の人と結び合おうとして、「糸」を出している。けれども、その糸は相手の届くには長さが足りない、半分しかないからだ。全ての人が半分しかない糸を精一杯伸ばして、他の人とのつながりを求めている。けれども、なかなかつながりは得られない。接触はあってもしっかり結び合うほどの強度と持続性はない。ある時、触れ合ってもそれは何らかの事情で、何からのきっかけで切れてしまうことだってある。「絆」を求める思いは切実である。けれども、その「絆」の持続性を保証するものはあるのか。いまはやりの言葉でいえば「持続可能性のある絆」とはあるのか、どのようにしてそのような「絆」を作りだすのか。

(4)何にだって、「可能性」はある。だがその「可能性」を「現実化」するのは、そうしようという「意志」、「努力」、「熱意」が必要であろう。だが、その「意志」、「努力」、「熱意」を生みだすにはどうしたらいいのだろうか。医者に運動不足を指摘されても、なかなか継続的に運動を生活の中に入れることのできない、私には、重すぎる課題である。こんなことを考えているとかえって健康に悪いぞ、という内なる声が聞こえてくる。何とも仕方のない私だと、思い知る。『汝,自身を知れ』、だ。

それでは皆様ごきげんようさようなら。

by Jedinagare | 2013-08-29 21:26 | 人生の羅針盤  

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